Green Fortress

プログラマーのポエム隔離所

論理と価値観

私が高専を出てから仕事を始め、頭を悩ませたもののうち、上位にランクインするのが「論理的に考えて表現すること」である。 高専で何をやっていたんだと思われるかもしれないが、成績も教員受けもよく、正直なところ、自分は論理的に考えることができる人間だと思っていた。 今思い返すと、あれは授業で習ったことをパターン化してオウム返ししていただけに過ぎなかったし、教員は同じ授業を幾度と無くやってパターンがわかっているのでそれに則って評価していただけだから相当にハイコンテクストなものであったと言えるだろう。

論理性にもいろいろあるが、特に難しかったのが、「問題の深掘り」と「話を筋道立てて説明すること」であり、説明が飛躍していると言われることはしょっちゅうであった。 今思い返すと、純粋のその能力がなかったのだと考えざるを得ない。仕事内容がミスマッチしていてあまりモチベーションが保てなかったことや種々のストレスも思考を妨げたであろう。「なんでこんなくだらないことを突き詰めて考えないといけないんだ」という不平が相当強かったことを覚えている。

論理性を身につけるための訓練は正直苦痛だった。仕事の文書で「ここ話が繋がっていないよ」と指摘をされてもなぜ繋がっていないのか、話が繋がっているところとの違いはなんなのか考えても考えてもわからなかった。20過ぎてから思考体型を塗り替えるのは本当に苦痛だった。 その中で役に立ったのは、紛失したが論理なんちゃらトレーニングみたいな書籍と、BLOGOSでブログを片っ端から読むことと、匿名掲示板で荒らしと喧嘩することであった。だが不幸なことに、これらの結果がある程度実ったのはメンタルを壊し、引きこもって時間を持て余していた時であった。

論理性を身につけてわかった重要な事がある。「世の中は論理的に考えることができない人間のほうが多い」ということである。特に、同じ組織で同じ仕事を数十年続けて休みの日にはTVとパチンコくらいしかやることのない人間が思考を突き詰められるわけがないのである。もちろん、そういった人間にも当然生業として得意とする領域が存在するが、よく観察してみると思考に「前例主義」「権威主義」「思考の飛躍」「自己矛盾」「ダブルスタンダード」といった非論理的な要素がありありと浮かび上がってくる。そして、そういう人間は「目下」からの進言は受け入れない。東京の会社で自分の論理性のなさに散々悩まされたと思ったら地元で他人の論理性のなさに悩まされたのである。

そしてそういう人間を観察して気づいたが、彼らも常に破綻しているわけではなく、論理性がない部分には一定の法則があることが見えてきた。例えば、権威主義の人間は権威のない人間の意見には反発するが、同等以上の立場を持った人間からの発言であれば同じ内容でも聞き入れることがある。ようは意見の中身ではなく、言っている人間のステータスで意思決定しているのである。ただ、権威のある人間は実力があるという仮定に基づけばそういう考え方も完全に誤っているわけではない。ようは、価値判断する上で重要視する重み付けのパラメータが違うのである。

最も大切なことは、「その人が論理的でない判断をする部分に論理をぶつけて誤りを正そうとするのは極めてコストが高くつく」ということである。お互いに相手の争いを指摘するうちにヒートアップして言い争いになった例を幾度と無く見てきた。私の場合は身内という最も近い立場の人間と散々争ったことで一定の妥協をしないと収拾がつかないことを学習せざるを得なくなったのである。人間は所詮は動物なので論理だけで思考することはできない。故に立場やメンツに気を使ったり、言い方がソフトになるように気をつけたり、代替案を用意したりと話を円滑に進めるために工夫をする必要がある。論理だけで相手をねじ伏せるのには憧れるが、残念ながら今生ではそのような振る舞いが許される舞台はなさそうである。