Green Fortress

プログラマーのポエム隔離所

科学という文化 序論~なぜ私はブログを書かないのか~

本学の授業に「科学という文化」という講義があり、知の共有についてこれまで/これからの姿勢を共有せよというレポートを求められた。 このブログを見ればわかるようにエンジニアとしての私はブログを書くことにかなり消極的な立場を取っているが、よい機会なので「なぜ書かないのか」という現状を整理したいと思う。

まずそもそも文章を書きたくない

文章を書くことは「苦手」というよりは「面倒」である。非常に体力・精神を持っていかれる自覚があるし、ジャンルに関わらず文章を形にできる人は尊敬する。 なので私が少ない文章を書くきっかけは必要に駆られた時でノルマ以外だと「感情が爆発して居ても立ってもいられない」と「自分が書かないと情報がない」場合である。

例えば、以下の記事は衝動ベースである。よく考えたら大学教員に大学教員を批判している記事を見せていることになるが、サンプル数が少ないため平にご容赦願いたい。

hiromikai-green.hatenablog.com

逆にCiv5のような洋ゲーのレポートは日本語での供給が少なすぎるので書いたというパターンである。 編入試験・単位認定などについては私の場合オンリーワンを自負できる特殊なバックグラウンドを持っているので共有する価値があるのだが、面倒さが勝ってまだ形になっていない。

衝動的に文章を書いたはいいが、一応人様にお出しする上では読めるものにしないといけない。正しいソースを使っているか、論理的に筋が通っているか、体裁、くどい繰り返しがないか、などなど。 ここで思考をクールダウンして論理にリソースを費やさなければならないのがまた億劫である。 もっとも、ブログではなく発言での話になるが経験上ボケとツッコミ以外で衝動的に発した言葉は例外なくロクでもない舌禍を巻き起こしているので手を抜くわけにもいかないのがまたつらいところでもある。

ググれば済むことは書く必要がない

私は前身のブログを持っていたが、そこで書いたことは今となっては無価値だったと思っている。だいたいがエラーログの羅列と他ブログから引用したうえでの劣化コピーだからだ。 もっとも、当時の私は今の自分と比べてもなお数段思考能力に劣るところがあったので写経のような形で情報を記憶する必要性があったとは思うが、情報としての価値はない。 むしろ伝達の過程で内容を誤っている可能性すらある。 なので今では「mysql インストール」とか「ruby hash each」とかいうキーワードで検索することは多々あるが、その場で解決するような内容はいちいち記録したりしない。 インターネット文化という観点では記録しておけばよかったと思う内容は結構あるが、技術的な観点では個人的にはまだ「昔はググってすぐ入手できる内容がいつの間にか陳腐化して探しにくくなってしまった」内容は思いつかない。

文章で人と争いたくない

これは私が心優しい人間だからではなく、単純に議論やそれを通した相互理解が難しいと思っているからである。 わざわざ例を挙げるまでもなく実名・匿名を問わずこれまで数々の先人がほんの些細なボタンのかけ違えで血で血を洗うようなレスポンスバトルを繰り広げてきた。 もちろん、有益な議論は山ほどあるし、意見が対立しても論理的に事を進め小さい対立をお互い認め合い収束ような形式は非常に望ましい。 しかし殆どの人間はそれだけで済まそうとしない。明らかに感情の発露を求めている。 私はインターネットの片隅でひっそりしているので基本的に議論を仕掛けられることはないし、議論をする場合は身近な人間に対象を絞って、細心の注意を行って実施する。 ブログのようなマスメディアで一定数を越えて読者がつくとどうしても誰かがケンカを買ってしまう(ように見えるのでやりたくない)のだ。 サービス運営など、目的がある場合のブログはアンチがいたとしても人の目に触れることや、ファンを獲得することがそれ以上に重要であると言われている。 しかし、私の場合そのような目的がないのでそもそも「バズる」…注目を浴びるモチベーションがないのだ。

おわりに

ではなぜこの記事を書いたかというと、講義の課題であること以上に、このブログスペースを持て余しているなという自覚もあったからである。 以後の課題ではクローズドな手段を使うかもしれないが、普段の自分として見られて支障のない意見表明についてはオープンスペースを使ってもよいと考えている。