Green Fortress

プログラマーのポエム隔離所

1作で2度美味しい「三ツ首コンドル」

この記事は週刊少年ジャンプ打ち切り漫画 Advent Calendar 2015 - Adventarの6日目…のはずが昨日書くのを失念した大事故により1日遅れでお届けします。本当にごめんなさい。

今回お届けするのは去年ジャンプに連載され、全三巻で打ち切りとなった「三ツ首コンドル」のご紹介です。 この漫画の特徴的なところは最序盤に「どうしようもないクソ漫画」として散々物笑いの種になったにも関わらず尻上がりでクォリティを上昇させ、連載終了間際には少数ながら固定ファンを獲得するに至ったところにあります。*1

そんな本作の軌跡を辿りながら、その魅力について語っていこうと思います。 ちなみに私は連載最序盤から某掲示板に張り付いて定型文の応酬を楽しみ、単行本全巻買ったバリバリのコンドラーです。 あと、要所要所ネタバレしますのでご注意を。

フフフ、概要正確ですよ

かつて「常闇の三大盗」の一人として恐れられた盗賊・マシマロと成り行きで弟子になった少女・スーが全部で59あると言われる「魔女の宝」を集めるために奮闘する冒険譚です。 序盤は宝がなさすぎてパッとしないのですが、終盤は豊富な宝と宝の魔力で能力を持った「魔女の副産物」による華々しい能力バトルの様相を呈してきます。

主人公の一人、マシマロは非常に小柄で子供にしか見えない容姿なのに敬語口調で妙に達観したところのある掴みどころのない男です。 大抵「フフフ、○○ですよ」の形式でしゃべるので口調をエミュるのがかなり簡単だったりします。 職業は盗賊ですがテンプレ義賊みたいなもので、彼自身は基本的に善人のカテゴリーに位置します。 性格としては異様に「美」にこだわります。*2

とらえどころのない性格と美への執着でさっぱり感情移入ができないのが読者から見て困るところですが、根幹のところではとても仲間想いなことが終盤に明らかになります。 冷静さ、宝への執念、高い体術や盗みの技量、宝の扱い方など随一の能力を誇りますが終盤に死にます

もう一人の主人公、スーはマシマロに憧れていた少女で、最初はただなりゆきでついていっただけの存在でしたが最も憧れていた男を間近で見続けて急激に成長します。あとおっぱい。 わかりやすい常識系ツッコミとお色気担当で成長枠でもあります。レギュラーが少ないから役割が多い。

ちなみにこの二人の技は全て「(アルファベット大文字)・(日本語)」で統一されています。 「G(ゴーレム)・ナックル」とかは違和感ないのですが、「M(目潰し)・蹴り」や「R(竜)・砕き」のようにどう考えてもダサい技名でもブレません。

この二人を軸に、宝を持つ盗みのターゲットである王族や競合する盗賊、他の「常闇の三大頭」のメンバーが関わってきます。

誤植…誤植しない…

この作品はかなり誤植が酷く、意図が伝わりづらい言い回しも多いため山程迷ゼリフを産んできました。 単行本では殆ど修正されてて当時のライブ感が味わえないので再掲しておきます。

  • 第1話「B・B・Dでよろしく」→なんでブラよろみたいなタイトルなんだって皆を疑問に陥れましたが単行本で「B・B・D」に修正されました。あからさまに担当との間で伝達ミスしてます
  • 1話にしていきなり出てくる宝のNoが混在します。「No.16 ゴーレムの心臓」「No.45 ゴーレムの心臓」ってどっちやねんと。*3*4
  • 「逆鮮」→多分逆鱗の間違いだろうと言われていました。しかも技名を最後まで言えなかったせいで余計アホっぽいことに…
  • 「フフフ、小声正確ですよ」→単行本で「正解」の誤りだと明らかに。言いたいことはわかるけど変な言い回しが刺さって頻出する定型文になった台詞です。
  • 「奴らを二度と誉めはせんよ」→変なセリフ回しでしばしば使われる定型になったフレーズですが「嘗めはせんよ」の誤字であったことが単行本で明らかになりました。
  • 「三日間の蘇生もようやく完了かと」→単行本で「三日かかった蘇生も~」に修正。この表現のせいで蘇生に三日かかったのか蘇生できるのは三日間だけなのか結構スレで議論になりました*5

ゾク

マシマロが本気になった際に気圧されたキャラクターが発する擬態語で、1話から結構頻出するのですが、マシマロの絵面がかなりダサいせいで「ゾク(笑)」みたいな扱いを受けることになりました。いつでも切り返しに使える便利定型の筆頭です。 ただ、結構連載を通してレベルアップしたところでもあり、私の感想としては「初回はカッコよく見えた」「今回は普通にカッコ良かった」と着実に進歩を重ねてきた演出でもあります。*6

ム・待て第二話 貴様加減などわかって… あぁ!

百戦錬磨のコンドラーをしてその全員がクソだと断言するであろう問題エピソードです。 「二話のせいでスタートダッシュに失敗して打ち切りルートに突入した」と考えているコンドラーも結構います。 話の流れはこうです。

ある村の酒場で飯を食うマシマロとスー

村人から騎士であるサルサから村の宝である竜殺しの剣を取り返して欲しいと依頼を受ける。彼は村の護衛をすると言い張って勝手に居座り、強引に剣を奪った挙句対価まで払わせているという

竜殺しの剣に興味を持ったマシマロは彼がいる洞窟に向かう

サルサと交戦し、いとも容易く撃退

剣を返そうとしたスーは村人から感謝されるもその場で剣をマシマロが強奪して逃走。スーも結局一緒に逃げる。サルサはマシマロに興味を持ち、護衛を放棄してマシマロを追い始める*7

以降の話ではサルサは最終話まで一切出現しない

これだけ見ると普通というか、ちょっと突っ込みどころのある話の流れなだけですが、「非常に独善的」「一見誇り高そうだが卑怯な手も躊躇いなく使用する」「弱い」という傍若無人極まるサルサに対して「え、まさかコイツ仲間になるの」と皆が不安になり、結局仲間にならなかった今となっては「じゃあなんでこんな話用意したんだ」と言われることになってしまうのでした。引きも一切ないし。

サルサに関しては存在そのものがネタとなっているので細かく台詞を追ってみましょう。

よく避けた 騎士の誇り高き一撃を

不意討ちに失敗したあとはこう言うと場を取り繕うことができます。

フン!その程度で躱した気になるとは愚か!

彼の攻撃はマシマロにもスーにも全てかすりもしていないのですがこの自信。

ム・待て女…貴様 加減などわかって…あぁ!

スーに剣を奪われたサルサが発した迷言。この台詞以降のバトル描写はカットされ、いきなり場面が吹っ飛んで場面は村に移ります。 アニメとかだとしばしばある演出ですが、どう考えても第二話にやるやつじゃない。

安い挑発だが乗ってやろう 騎士の誇りにかけて剣は取り返す!故に悪いな村人よ護衛はここまでだ!

いい人っぽく言ってますがそもそも村人の悩みは剣を奪って強引に居座るサルサです。

しかも「逆鮮…」と技を言いかけているところで「あ、頂き」という異常に軽いノリでスーに剣をパクられた挙句、上のようにいきなり省略される気の抜けるバトルシーンで、当時のコンドラーの関心は「どれだけ笑えるセリフ回しが出てくるか」「どれだけ意味不明な展開になるか」に集約されていました。

なんぞ連載する そのコンドルは手遅れぞ

そんな空気が徐々に変わってきたのが単行本でいうところの2巻収録分からです。 金の亡者である盗賊、ブルーシールが加入して掛け合いが充実化し、スーのお色気シーン増加、魔女の宝「魔術王の指輪」から召喚される悪魔がかっこいいなど見どころが徐々に増え、序盤で散々見せつけられた話の流れも整然とされてきます。

そして最後のエピソードでは残りの「常闇の三大頭」のオリーブとハヴァが登場し、マシマロが冒険する理由が明かされます。 ハヴァとの怒涛の能力バトルの果てにマシマロが死亡し、怒りに燃えるスーが秘められた力を目覚めさせハヴァを撃退。 マシマロを喪ったスーはその後…というエピソードまでが18話の間に濃度マシマシで描かれます。

当然打ち切りなので駆け足感はありますし、ハヴァは連載続いてれば味方になったポジションだろうなと思わされるのですが、それでも残された話数からきっちり話をまとめきった点は評価に値します。

私はまとめが 欲しいのです

「三ツ首コンドル」は「突っ込みどころのだらけのクソ漫画」が「粗削りながら見どころのある佳作」へと成長していく様子が全三巻18話で楽しめます。 単行本のエピソード加筆もかなり充実していますが、本誌の誤植も笑いのネタなのでどちらもおすすめです。 機会があったら是非読んでみてください。定型とか覚えておくと石山先生が次連載した時に使えると思います。*8

ハハッ その後とはビリリときたよ

作者の石山先生はその後、ジャンプNEXTで「凶星の紫」を、そして今日発売のジャンプに「妖移植変異体ガロ」を掲載しました(どちらも読み切り) まさか私も1日遅れたことでネタが増えることになるとは予想だにしていませんでした。

「凶星の紫」は個人的にあんまりピンと来ませんでした。無能力筋肉担当はさすがにデクとアスタさんいればいいかなという感じで食傷気味でした。 「妖移植変異体ガロ」は全体的にいい出来で楽しく読めました。ただ仮にこれで連載したとして生き残れるか、とは少し考えてしまいます。たった18話であれだけレベルアップした方なのでもっと素直に唸らせてくれることを期待しています。あとおっぱい。

*1:クソ漫画じゃなくなったから失望したと主張する読者も少数存在します

*2:ストレイト・クーガーが「速さ」にこだわるようなアレです

*3:単行本で45が正であると明らかになりました

*4:このミスのせいで2chのスレテンプレには「登場したお宝」に両方のゴーレムの心臓が記載されるネタが存在しました。本スレのNo.16も「【石山諒】三ツ首コンドル No.16【No.45】」なんてことに。

*5:限られた時間蘇生できる魔女の副産物が登場したせいで余計わかりづらい

*6:これは普遍的な意見ではないので見方が異なる人もいるかもしれません

*7:締まってるようで全然締まっていないこの話、編集によるラストの煽り「☆マシマロ式の一件落着…!? 」は定型入りしました

*8:SOUL CATCHER(S)の話するときにはLIGHT WINGの定型も役に立つように

GitのGUIはハイブリッドで~IntelliJ IDEAとSourceTree~

この記事はJetBrains IDE Advent Calendar 2015 - Adventarの3日目の記事です。

JetBrainsネタとしてはボーダーラインの微妙なところですが事前に用意していたネタが完全に事実誤認だったので慌てて作成した記事だったりします。

私はGitはGUI派で、SourceTreeとIntelliJ IDEAのVCS機能をハイブリッドで使っています。 とはいっても九割SourceTreeで、足りない部分をエディタも兼ねているIntelliJ IDEAにやらせてる感じです。

SourceTreeは概ね以下の様なことに長けています。

  • ブランチの時系列の流れが把握しやすい
  • 異なるブランチの相関関係が把握しやすい
  • ブランチで作った差分の内容が把握しやすい

全体の流れをさっと押さえることに関して長けている印象があって気に入っています。 ただ、物足りない事があって、以下の様な内容が苦手です。

  • 特定のファイルの変更内容を見ようと思ったら対象のコミットを探さないといけない
  • ブランチで変更していないファイルの状態がわかりにくい

つまり、特定のファイルにフォーカスして状態を把握することにかけては不得手と言えます。 この不満点をIntelliJの機能がきれいに補完してくれます。

特に私がよく使うのはファイル単位の「Show History」と「Compare with Branch」です。

  • 「Show History」は選択したファイルピンポイントで変更されたコミットを確認することができます。
  • 「Compare with Branch」は選択したファイルを現在のブランチと指定した他のブランチで差分を取ることができます。

Windowsで開発してた時はTortoiseGitも使ってたんですが、端末がMacに変わったのと、上記二つでやりたいことを満たせてるので多分もう使わないかなという感じです。 ただ、ロースペックマシンで開発するならTortoiseGitは取り回しがいいのアリだと思います(たまーに裏でこっそりリソース食いつぶして叩き落とす必要に駆られたことがありましたが)。もうメモリ残量とにらめっこして余裕があるかを見極めながらSourceTreeを立ち上げるような開発ライフには戻れる気がしません。

というわけで以上、同じgitの操作でも用途に応じてツール使い分けるといいんじゃないのというお話でした。

「おたく文化と児童ポルノ」への反論の試み

今日は一日中不機嫌な日であった。 元々自分は独善的な人間で、異なる価値観に寛容な方ではない。生きているうちに少しずつ学習して寛容であるように努力しているだけだ。

不機嫌の元はこの記事である。 togetter.com

こういうのが西洋人の目には児童ポルノと映ってしまう。だから恥ずかしいということではなく、日本のおたくカルチャーは児童ポルノと同じ進化環境で進化してしまったということ。それにしても男根の代わりにでっかい吹奏楽器と絡むこの構図はいったい。

この記事の1ツイート目はそのセンセーショナルさから大きな注目を集め、炎上した。 というより自分もリツイートしながら言及したので明確に炎上に加担した。 「響け!ユーフォニアム」は観ていないが、かつて8年吹いた青春の象徴である楽器を穢されたような思いを抱いたからだ。

ただ感情が落ち着いてくるとこの人は何を主張しているのだろうというのを整理しようと言う気分になってきた。 罵倒は他の人が勝手にやってくれるから自分でやる必要はないし、そうでないと反論できないからだ。

本論

まず、筆者が理解した久美氏の主張で重要と感じたものを箇条書きにする。

  • 日本のオタクコンテンツはしばしば海外の人間から児童ポルノのような奇異なものとして理解されることがある
  • オタクコンテンツがセックスや暴力を内包して連想させるものであり、かつ同人誌の流通によって直接的なセックスが表現されている
  • 上記のような性的・暴力的な二次創作の需要を受けてそれらの嗜好を満たす記号を持たせた作品がどんどん登場していった
  • オタクコンテンツは「子供のもの」と「大人のもの」という扱いをダブルスタンダードで都合よく使い分けてバッシングから逃れている
  • 相手から児童ポルノあるいはグロテスクなものとして捉えられている以上、そうでないという反論は意味をなさない

この内容のうち、1番目の現状は筆者も同様に理解している。

2番目以降の内容を理解するには、久美氏が言うところの「子ども文化」という用語を読み解かなければならない。 例えばディズニー作品は「子ども文化」だろうか。仮にそうとしてディズニー作品の二次創作が流通しないのはエロがどうとかではなく「ハハッ(甲高い声)」のネタでお馴染みなようにディズニーが著作権に極めて厳しいことが直接の原因だろう。 他の海外の「子ども文化」については詳しくないので言及を避ける。

ただ、他の久美氏の「子ども文化」に関する言及は正直よくわからない。

子ども文化の文脈でメディアセックスしまくっている

こちらは全くわからないので言及のしようがない。

なぜ規制が緩いのか?それは「たかが子ども文化じゃないか」で済まされてきたから。日本はもともと子どもに甘い文化土壌で、そこに敗戦が加わって「おとな」が消えてしまった。これがおたく文化を育んだ。そこを暴くのは二次創作ではなく研究と呼ぶ。

こちらに関しては現状認識からして一致しない。本当にそうなの?という思いである。 一般論としては封建的で子どもの自立性を尊重しないものとして見なされているのではないだろうか?

日本のおたくコンテンツのシンボルといえば、童顔ナイスバディガール。「おとな」と「子ども」の両方の顔を使い分けて肥大進化したのがおたく文化。それが具象化されたものと私は見ます。それが西洋人には児童ポルノの文脈で解釈されてしまうのです。

こちらはまだ理解できて、確かにそうかもしれないと思うことがある。だが、実際には本当に朝昼にやっているような低年齢層向け「子ども」向けのコンテンツはそのような姑息な真似をせず、性的・暴力的な記号をできるだけ抑えるように努めてきた。 例示されている「響け!ユーフォニアム」は深夜アニメであり、当然「大人」の文法で作られる。我が国で適用される18禁の基準は満たしていないので未成年者でも夜更かしすれば見れる、アニメイトに行けばグッズが買える。それだけではないだろうか。 それをポルノとみなす人間との議論が困難であるという指摘は残念ながら久美氏の言うとおりである。

現状認識が一致しない点はまだある。引用を続ける。

甘い。子ども文化を出自としながら次第に青年層(男子に限らない)を取り込み、やがて成人のいろいろな層も取り込んで肥大化したのがおたく文化。それなのに何かバッシングがあると「たかが子ども文化じゃないか」で逃げ回る。二重スタンダード。

この点は全く認識が一致しない。 オタクコンテンツ生産者にとってはオタク文化は飯の種であり、ライフワークである。「たかが子ども文化」などと他人事のように言い逃れをできるフェーズなどとうに過ぎている。 あまつさえ消費者のオタクなんてオタクコンテンツを引き算したらゼロになってしまうような人が少なからずいるのに(該当すると思った人ごめんなさい)そんな軽い言い訳ができる人間は少数派なのではないか。

例の国連派遣の調査官による児童ポルノ発言が叩かれたのも、彼女の発言が「たかが子ども文化じゃないか」という建前を打ち崩すものだと取られたから。おたく文化の共犯メカニズムを国家ぐるみで隠ぺいしようというのがTPPを受けて文化庁が宣言した「二次創作は見逃す」宣言。

極めつけはこのツイートであり、一応中立の体裁を取っている久美氏のバイアスがありありと現れている。 「例の国連派遣の調査官」というのはマオド・ド・ブーア=ブキッキオ氏のことであろう。 この件に関しては以下の山田太郎参議院議員の見方を支持する。公的な立場の人物が裏付けもせずに発言すればこうもなろう。

ブーア・ブキッキオさんの記者会見について【第64回山田太郎ボイス】 | 参議院議員 山田太郎 公式webサイト

ただ単に一般の外国人と会話してて「日本のアニメは児童ポルノ」と言われれば、久美氏の指摘する通り「理解してもらうのは大変だね」で済む。ケンカになるかもしれないがしょうがない。 しかし、公的な立場の人物がバイアスの自覚もなしに一方的な立場から意見を述べば問題になるのは明らかだ。 それは相手が西洋人だとかグローバル・スタンダードだからよいわけでもないし、ターゲットがオタクだとかアニメだからよいわけでもない。 それを許すということであればそれこそダブルスタンダードである。

結局のところ、久美氏の指摘するエロや暴力の隠喩は完全に否定できるものではないが、それでもかなり都合の良いものの捉え方をしており、「外国人が~」という下りは自分の主張の正当化のために代弁させているだけではないのかという印象を持った。 親切にも対話が困難であることをご自身から指摘してくれたのでできることならこれ以上の議論は避けたいところである。

2才児を喫煙させた動画で逮捕された夫妻から考える

私は警察が嫌いである。 理由はよくわかっていない。冤罪などの組織的な問題もあるが、もしかしたら自分の本質的な欲望が法秩序の外側に位置するのかもしれない。子供の頃、名探偵コナンを見ている時も犯人に感情移入することがやたら多かった。 そのためか刑事ドラマや探偵モノの作品はあまり好きではないし、警視庁24時のVTRで逃走犯を追いかける警官のチンピラめいた煽り声は本気で不快感を催す。あんな奴らの世話になるくらいなら法を遵守して健全な市民でいる方がよほどマシだ。

私は自由主義の考え方に惹かれることが多い。政府が介入し、規制する内容は現在よりもより少なくあるべきだ。 一方で、アナーキズムテロリズムには与しない。秩序が崩壊すれば国家の縛りはなくなるかもしれないが、自称イスラム国ISを見るようにそれが豊かな生活にはとても思えないからだ。

表題に戻ると、この夫妻が行った行為は犯罪であり虐待である。法的にも道義的にも擁護する余地はない。 しかし、夫妻の子供はどうだろうか。タバコを吸わされるのも苦痛だが(筆者は嫌煙家なので同情する)、国家権力によって両親と引き離されるのも同等の苦痛があるのではないだろうか。クズであろうが犯罪者であろうが一応は実の親である。

逮捕歴が付くことでどのような影響があるか(非常に不利な制約がつく印象を受けるが)よいデータを筆者は持っていない。遠隔操作犯罪で世間を賑わせた片山被告の場合は学生時代の掲示板での殺害予告での前科が着いた後、会社員として社会復帰できていたようではあるが。

なぜこのようなことを気にしているかというと、インターネットによってあまりにも逮捕が身近なものになっていないだろうかという点を強く危惧するからである。 この夫妻に限らず、年端もいかない学生がインターネットで粗相をして逮捕される事例を散見する。いじめのような傷害罪だと学校がかばい、万引きのような窃盗罪であれば示談だったり警察で怒られるだけで放免されるのに比べるとあまりにも厳しすぎるのではないだろうか。 (いじめの加害者は確かに犯罪者であり、私も近いものを受けた経験はあるが、それでも逮捕は最後の手段であるべきだ)

違法行為なのは疑いようもないが、道路交通法違反だって違法行為である。だが、駐車違反や一時停止違反のような内容であればよほど厳しい業務についていない限り包み隠す必要もないだろう。「逮捕」というのは我々一般市民にとってあまりにもインパクトが大きすぎるのである。

私が政府に要求するとしたら、逮捕勾留からの起訴制度に代わる略式のよりソフトな刑罰システムである。道路交通法点数制度を拡大するのもよいだろう。 逆に、裁判員制度のように、量刑に「市民感覚」を適用すると厳罰化が行き過ぎるから避けるべきである。

私は仏教徒だが、お決まりのフレーズを最後に聖書から引用する。

―――あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。

イエス・キリスト

15/11/23追記 しかしよく考えたら罰則システムを追加するのって自由主義的じゃない気がする。 かといって刑罰の軽減化とかそう簡単に起きようはずもない。 意図としてはもっと世の中の窮屈感がなくなって欲しいのだが、どういった方向性がよいのだろうか。

財務省から見る文教科学予算

Twitterを眺めていると、ここ数年、教育が予算不足であるとの意見をよく目にする。 大学の高い学費や返却の必要がある奨学金への批判や、研究予算の不足が叫ばれている。

一方で世界大学ランキングでの埋没への危惧や、大学再編対して文系軽視の姿勢であると反発する研究者などの声もインターネットで目にする。

これらの声をきっかけに、なぜ日本では教育の費用が不足していると言われるのか、その原因を知りたくなった。

日本の国家予算で印象的なのは国債費の高さやもはや崩壊していると言われて久しい社会保障費だ。 文教及び科学に関する費用が5.6%に対して32.7%の割合を占めている。 https://www.mof.go.jp/tax_policy/summary/condition/002.htm

他の国はどうかという比較を行いたかったので試しにアメリカと比較してみることにした。 以下のレポートによると2013年時点で社会保障に関連する支出は保健福祉省25.7%、社会保障庁25.1%。 思ったよりも支出が大きいという印象を持った。 http://www.dir.co.jp/research/report/place/intro-usa/20140605_008612.pdf

小さな政府と言われるアメリカでさえ予算の半分近くを使っているのだから、ここで社会保障費悪玉論を持ち出すことは難しそうだ。 日本の社会保障には大きな問題意識があるが一旦脇に置かざるを得ない。

それでは、教育に関する予算の中での配分はどうだろうか。 平成27年度予算案(文部科学省http://www.mext.go.jp/component/b_menu/other/__icsFiles/afieldfile/2015/03/11/1354604_1.pdf

主要な数字を拾い上げていくと、以下のようになる。 義務教育負担(1.52兆 28.6%) 高校就学支援(0.39兆 7.3%) 国立大運営交付金(1.1兆 20.6%) 私学助成(0.43兆 8.1%)

義務教育の費用が3割を占める。 憲法違反との指摘もある私学助成費用が5000億円にのぼるが、それでも1割に満たない金額である。

いくら少子化とはいえ、義務教育費を削減するのは難しそうであるが、その中で適切な予算配分が行われているかはチェックする意義があるだろう。

ここでは一つの視点として、財務省の以下の資料を紹介する。 文教・科学技術関係資料 平成26年10月27日(月) 財務省主計局 https://www.mof.go.jp/about_mof/councils/fiscal_system_council/sub-of_fiscal_system/proceedings/material/zaiseia261027/03.pdf

これは教育関連予算に関する財務省のコメントであり、文部科学省の縄張りに対して外野からコメントをしている。 (文部科学省がこれを受けてどう思っているのか気になるところである)

義務教育に関しては以下のようにコメントしている。

日本の小中学校予算は教員給与支出に配分が偏っているのが問題。予算構造を見直 し、義務教育予算の質を高めるため、既に国際的にも高い水準になってしまっている在学 者一人当たり教員給与支出を引き下げる方向で見直す必要。教員定数、給与水準両面で 効率化を図るべきではないか。

また、そうは言っても現在教員が非常に疲弊していることへの問題意識が様々な識者により挙げられているが、そのことについては以下のように述べられている。

日本の教員の年間授業時間(小学校・中学校合計)は、OECD調査対象30ヶ国中23位と低水準であ り、主要先進国(アメリカ、ドイツ、フランス)平均よりも小学校については2割程度、中学校については3割程度少ない。日本では授業以外の事務作業等(授業準備、職員会議、一般事務作業等)に多くの時間が充てられているという問題がある。 (注)イギリスについては、国としてのデータが存在しない。

教員の負担感を軽減し、より児童生徒に向き合う時間を確保するためにも、事務作業等の時間を短縮するための 取組み(業務の合理化・外部化、外部専門人材の活用、教職員一人一人の能力向上等)が必要。年間授業時間が 国際的にも低水準にある中で、これ以上教員を増員しても効率的な解決策にはならない。

異論もあるとは思うが、私はこの財務省の見解には納得感がある。ただ、公務員は民間以上に簡単には解雇できず、人材の流動性がないため、そのままの状態で外部人材を雇用すると人件費が増えるだけになってしまうだろうという懸念がある。 また、余剰人員の解雇をせずに人件費を調整すると新規採用の抑制が大きくなり、人材の年齢構造が歪になってしまうであろう(就職氷河期の民間企業でよく見られた)。そう考えると教員の人件費が高いからといってすぐに抑制するというわけにはいかなそうである。

今回の調査では簡単に大学の予算に回せるような費用は見つからなかった。また折を見て考察してみたい。

Crystal-lang雑感

Qiitaに書くほどきっちりした内容がないのでとりとめもなく書く。

最近Rubyによく似た文法でありながら静的型付け言語であるCrystal言語が勢いを少しづつ増している。 まだまだ言語としてもエコシステムとしても発展途上であり、実運用への適用は先の話となりそうだが、ものすごい勢いでPRが飛び交い、エコシステムの整備が行われており、熱量を感じる。あと個人的にセルフホスティングされてるのがグッと来た。

「近い将来Crystalの時代がくるーっ!」とは言っているもののウォッチだけして特に触っていなかったが、homebrewに追加されたとの話を聞きインストールしてみることにした。 ところがhomebrewに入っているバージョンは0.5台。最新版が0.9というのに対しあまりにもバージョンがズレている。 そこでcrenvを使ってインストールすることに。

crystalのコードをどう書こうかと思っていたがとりあえず手元のRubyコードを書き換えてみることに。 以前、以下の記事でRubyをそのままCrystalに書き換えるのは無理だよね、って結論になっていたが、それはガチのライブラリのお話。 数十行の書き捨てみたいなスクリプトであれば型定義を付け加える程度で動くようだ。 実用的なコード変換的には厳しいが、もともとなんの互換性も謳っていない言語がごくわずかな変更で別言語になるというのはそれはそれですごい。お遊びには十分である。

で、Crystal で Ruby のコードってどんだけそのまま動くの? - Qiita

自分が手元に持っていたスクリプトではそこまで実行時間がかからないものばかりであったが、せっかくCrystalはコンパイル言語になって動作速度が大幅に早くなっているというのだから是非とも試してみたい。 そこでプログラミング言語の実行速度を比較している記事を適当に見繕いその中からRubyのコードをダウンロードしてCrystalに書き換えてみる。 (著作物の私的複製にあたるのでここではその内容については触れない)

実行させてみると参照元スクリプトにもよるが、実行時間がざっくり10分の1〜100分の1になったりする。 (ループ演算しているファイル全体での実行時間短縮なので、1回の計算がどのくらい早くなっているかはきちんと比較する必要あり)

雑にとりあえず動かしてみただけの状態であるが、「Rubyよりはやーい!」と悦に浸っていた。 引き続きウォッチして有益な情報がまとまったらQiitaにも記事を書いていこうと思う。

科学という文化 序論~なぜ私はブログを書かないのか~

本学の授業に「科学という文化」という講義があり、知の共有についてこれまで/これからの姿勢を共有せよというレポートを求められた。 このブログを見ればわかるようにエンジニアとしての私はブログを書くことにかなり消極的な立場を取っているが、よい機会なので「なぜ書かないのか」という現状を整理したいと思う。

まずそもそも文章を書きたくない

文章を書くことは「苦手」というよりは「面倒」である。非常に体力・精神を持っていかれる自覚があるし、ジャンルに関わらず文章を形にできる人は尊敬する。 なので私が少ない文章を書くきっかけは必要に駆られた時でノルマ以外だと「感情が爆発して居ても立ってもいられない」と「自分が書かないと情報がない」場合である。

例えば、以下の記事は衝動ベースである。よく考えたら大学教員に大学教員を批判している記事を見せていることになるが、サンプル数が少ないため平にご容赦願いたい。

hiromikai-green.hatenablog.com

逆にCiv5のような洋ゲーのレポートは日本語での供給が少なすぎるので書いたというパターンである。 編入試験・単位認定などについては私の場合オンリーワンを自負できる特殊なバックグラウンドを持っているので共有する価値があるのだが、面倒さが勝ってまだ形になっていない。

衝動的に文章を書いたはいいが、一応人様にお出しする上では読めるものにしないといけない。正しいソースを使っているか、論理的に筋が通っているか、体裁、くどい繰り返しがないか、などなど。 ここで思考をクールダウンして論理にリソースを費やさなければならないのがまた億劫である。 もっとも、ブログではなく発言での話になるが経験上ボケとツッコミ以外で衝動的に発した言葉は例外なくロクでもない舌禍を巻き起こしているので手を抜くわけにもいかないのがまたつらいところでもある。

ググれば済むことは書く必要がない

私は前身のブログを持っていたが、そこで書いたことは今となっては無価値だったと思っている。だいたいがエラーログの羅列と他ブログから引用したうえでの劣化コピーだからだ。 もっとも、当時の私は今の自分と比べてもなお数段思考能力に劣るところがあったので写経のような形で情報を記憶する必要性があったとは思うが、情報としての価値はない。 むしろ伝達の過程で内容を誤っている可能性すらある。 なので今では「mysql インストール」とか「ruby hash each」とかいうキーワードで検索することは多々あるが、その場で解決するような内容はいちいち記録したりしない。 インターネット文化という観点では記録しておけばよかったと思う内容は結構あるが、技術的な観点では個人的にはまだ「昔はググってすぐ入手できる内容がいつの間にか陳腐化して探しにくくなってしまった」内容は思いつかない。

文章で人と争いたくない

これは私が心優しい人間だからではなく、単純に議論やそれを通した相互理解が難しいと思っているからである。 わざわざ例を挙げるまでもなく実名・匿名を問わずこれまで数々の先人がほんの些細なボタンのかけ違えで血で血を洗うようなレスポンスバトルを繰り広げてきた。 もちろん、有益な議論は山ほどあるし、意見が対立しても論理的に事を進め小さい対立をお互い認め合い収束ような形式は非常に望ましい。 しかし殆どの人間はそれだけで済まそうとしない。明らかに感情の発露を求めている。 私はインターネットの片隅でひっそりしているので基本的に議論を仕掛けられることはないし、議論をする場合は身近な人間に対象を絞って、細心の注意を行って実施する。 ブログのようなマスメディアで一定数を越えて読者がつくとどうしても誰かがケンカを買ってしまう(ように見えるのでやりたくない)のだ。 サービス運営など、目的がある場合のブログはアンチがいたとしても人の目に触れることや、ファンを獲得することがそれ以上に重要であると言われている。 しかし、私の場合そのような目的がないのでそもそも「バズる」…注目を浴びるモチベーションがないのだ。

おわりに

ではなぜこの記事を書いたかというと、講義の課題であること以上に、このブログスペースを持て余しているなという自覚もあったからである。 以後の課題ではクローズドな手段を使うかもしれないが、普段の自分として見られて支障のない意見表明についてはオープンスペースを使ってもよいと考えている。