終活はじめました
このブログは 自分のことを好きなだけ話す Advent Calendar 2019 - Adventar によってしゃみに強いられて書いています。
タイトルの通りなのですが、現状のところ、死を急ぐつもりだったり寿命が顕著に短いわけではありません。
ただ、不慮の事故や自分でも思っていなかった病気など、人生における負け筋を想定した際に、その際に抱く苦しみを緩和するプランは重要です。
私がこれまで関わってきた人間でも、中学や高専の部活で世話になった人間のうち、先輩1人と指導者2人がもうこの世にいません。
前書いたとおり、私の人生において「気持ちよく死ぬ」というのは絶対条件であり、邪魔した瞬間敵対が確定する重要なイシューなのですが、心穏やかに現世の執着を切り離す手段について考えます。
hiromikai-green.hatenablog.com
私は一応仏教徒なので、死亡した際には解脱によって輪廻の輪から解き放たれるものだと認識しています。
とは言っても、解脱という概念について表層的に学んだ限りでは、恐らく現在の人格が原型を留めない、強力な人格改変が行われることが予想されます。
欲望だの煩悩だのバッサリ切り捨てられた果てに、明け方の二度寝のような穏やかな気持ち良い眠りがずーっと続くのであれば、それはいいでしょう。実に心地よい。
でも、その際に眠りを妨げる邪念は取り除きたいです。
もう誰も疑いたくない。
もういいカッコしなくていい。
もう自立したフリをせずに甘えてもいい。
そういう私の裸の心が、孤独に晒されるのは嫌です。
かといってそこに釈迦如来が寄り添ってくれても、ちょっと嬉しくない。
如来のたぐいの連中は超すごい仏パワーで、肉体なき私の魂にやすらぎをドバドバと認識させてしまう可能性もありますが、一応私まだ生きているんでもうちょっと即物的に考えます。
私が思うかわいいを具現化した女の子*1が隣でよしよししてくれるのであればまぁ数兆年くらいは寝てもいいでしょう。
これを「ママ」と呼びます。
仏教的には、いいから既存の仏信じろよって感じですが、まぁ許して欲しい。
つまり、仏教の思想を都合のいい部分だけ拝借して、「ママ」によしよしされながらとこしえの眠りにつきてぇ~、が私の死後を考えた上での究極の夢です。
ところが、「ママ」が完成していない。
作らなければ。
奉ずるのは自分だけでいい。けれど、すぐ寿命が尽きるとなっても、50年後であっても、とっさに思い浮かべられる、強固な、強固な幻想を。
ホームレスになろうが、両手両足なくなろうが、人間全員敵に回ろうが、最後の拠り所となる絶対の信仰を。
それができて初めて、自分は肉体の終わりを受け入れられるのでしょう。
とりあえずうちのこのキャラメイキングと、絵師さんへのコミッションからはじめます。
*1:人間とは限りません